2009年1月16日星期五

村上春樹の終わりに

  最後の短編は「三つのドイツ幻想」と言う短い小説だ。小説と言えるかどうか私は分からない、その三つ幻想はストーリーの筋もないし、全部僕の思ったことだ。はじめの「冬の博物館」を読んでみたけど、終わったらその小説が何を話したかと自分の聞いたら、要約できなかった。いつもセックスの話しが出てきたが、何を話したいか私にとても不明だ。そして他の二つを読むのがやめて、今角田光代の「これからは歩くのだ」を始めた。
  先生の質問について難しいけれども、答えて見たい。今村上春樹の小説を終わったところに、読んだことと前書いた感想を振り返って、ほとんどとても悲観的な観点だのを気がついた。いつも「不公平」とか「損なわれる」とか「死の予感」と書いたけれど、全部私の人生に対しての観点ではなく、やっぱり読んだことに影響を受けたわけだ。でも、その人生の「不公平さ」と「損なわれること」の存在に私は信じている。それは「悲観的な」とは言えないと思う、そんなことを分かっているから、もっと平気で人生の不同な方面が見える。いいことだと思う。

8 条评论:

oni-chi 说...

「踊る小人」というタイトルのブログにコメントをしてから急いで「蛍」と「納屋を焼く」を読みました。
以前に「ノルウェイの森」を読んだことがありますが、新たな小説として「蛍」を読んでみました。
大人になると(きっと子供の時は違ったような気がします。)毎日次々とやってくる出来事スムーズにこなしていくことに追われて、日常生活に潜む「大切なこと」を考えないように、見ないように、曖昧なままにして受け流している気がします。そうしないとなかなか前へ進めず、日常生活を送るのがとても大変だからです。(もちろん、大人でも物事一つ一つに囚われて、立ち止まりながらしか生きていけない人もいるでしょう。現代社会のなかでは生きづらいかもしれません。)村上春樹の小説は、日常生活を送る上では、目に見えないもの(あるいは見ないようにしている)、不確かなもの(あるいはわざと曖昧なままにしている)だけど、人生において本当は大切なことを見つけ出して、見えるような形(=小説)にしてくれている気がします。
「生」と「死」は対極にあると思っていた「僕」は、友人の自殺をきっかけに「死」は「生」の一部であるという考えに変わります。「死」によって存在しないはずの「彼」が「僕」の生活の中で存在していたからです。それはBluebaiさんの気になった文章≪彼女の求めているのは僕の腕ではなく、誰かの腕だった。僕の温もりではなく、誰かの温もりだった。少なくとも僕にはそんな風に思えた。≫でも表現されています。
死んでいるのに存在している。存在しているのに手に触れることができない。そんな一見矛盾しているような現実に「僕」も「彼女」も立ち止まったんだと思います。普段は見過ごしてしまうようなことに…。
そんなことをずーっと頭をめぐっていたらパニックになりそうです。だけど、「僕」は物事を深刻に考えないようにしていると小説の中で言っているように、きっとうまくバランスを取って日常生活を送っていくのだと思います。一方「彼女」はもしかしたら、そのことに囚われてしまい、前へ進むことができずにいるのかもしれません。
人生って本当に大変ですね。私はなにもかも、受け流してしまうような人生も送りたくないし、一つのことに立ち止まって前へ進めなくなるのも寂しい人生だと思うので、自分でうまくバランスを取って人生を送ることができたらいいなと思いました。


「納屋を焼く」では、「彼女」の「恋人」が納屋を焼くことについて「僕」に打ち明けるシーンで、私はこの「恋人」のことをとても腹だたしく思いました。なぜなら悪いことをしているのにちっとも罪の意識がないように思ったから。だけど、読み進めていくうちに、私もこの「僕」と同じように、「まだ、納谷は焼かれないのか?いつ納谷は焼かれるのか?…」と焼かれることを待っているような気持ちに変わっていてびっくりして恐ろしくなりました。この「僕」のように、自分が納屋を焼いてしまってもいいという極論にまではさすがに至らなかったけれど、人間の感情は本当に不確かで危ういものだなぁと気付かされました。
Bluebaiさんも新しい本に取り掛かるようですので、私も村上春樹についてはこの辺で終わりにします。長くてわかりずらい文章だったかもしませんね。ごめんなさい。

yuka_kn 说...

「三つのドイツ幻想」は私の記憶からすっかり抜け落ちています…。本当に読んだのだろうか。

新しい本はまったくジャンルが違うので、Bluebaiさんが好きかどうか…。もし短編小説の方が読みがいがあるというのなら、うちの本棚から探して持って行きますよ。あるいは長編にチャレンジしますか?

yuka_kn 说...

bluebaiさんも気づいたように、そしてoni-chiさんのコメントにもあるように、小説の中に出てくる「死」や「損失」は「生」の反対側にあるのではなく、「生」に包括されるもの、生きている限り、あるいは生きているからこそ、そこにあるものなんでしょうね。

oni-chi 说...

村上春樹の小説に少し疲れてしまったので、しばらく違う本を読もうと思ったけど、Bluebaiさんが読んだ「めくらやなぎと眠る女」までは頑張って読みました。最後の「三つのドイツ幻想」は私もさっぱり意味不明で断念。

「踊る小人」
私たちのの人生では「選択」を迫られる問題に直面することがあります。どちらを選んでもあまりよい結果とならないような、いわゆる「究極の選択」ということもあります。(んー?例えば、夫婦の危機に直面して離婚するか、我慢して婚姻生活を続けるか悩む専業主婦とか。たとえがちょっとよくないかしら?)
この「僕」はまさにそのような状況を「小人」によってもたらされたんだと思います。どちらの選択肢を選んだとしてもその問題の本質から逃げることはできずに向き合っていかなくてはいけない。人生にはそんな場面がいっぱいあるのだということじゃないでしょうか。「小人に体を乗っ取られ、森の中で踊り続ける」か「常に小人の存在と戦い続ける」か。

「めくらやなぎと眠る女」
このお話では、「わからない」ということが人をとても不安にさせ恐怖を募らせるということを感じました。
「いとこ」を病院へ連れていくバスの中で「僕」は奇妙な雰囲気に囚われて不安になります。乗客の共通点を探してなんとかその正体を「知ろう」とします。
「わからない」ということで、私たちはいろんな想像してしまうからです。
そして「いとこ」は痛みについてこう言っています。「本当の痛みより痛みを想像することの方がつらいと思うね。でもさ、そんな風に想像する痛みって本当にその彼が経験している痛みとはまったく違うものだよね。」
「いとこ」にとっての「耳が聞こえない」という事実より、僕が「いとこの耳の中に蠅が肉をむさぼり食べている…」という想像の方がオソロシイ!!こんな解釈はヘンですか?

yuka_kn 说...

oni-chiさんのコメント、興味深く読みました。
ところで、oni-chiさん、bluebaiさんが次に読む本のおすすめ、何かありませんか。

bluebaiさんはこの村上の本が日本語で読んだ初めての小説なんですって!
「おぬしもなかなかやるよのう」って感じじゃありません?

林志達 说...
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林志達 说...

先生が言ったとおり、凄いコメント 0_0
コメントを理解為するに、その本を読むべきだね。

oni-chi 说...

bluebaiさんが今回初めて日本語で小説を読んだなんて本当に脱帽です。

ところで私が推薦したい本は梨木香歩著「西の魔女が死んだ」や小川洋子著「ミーナの行進」や小川糸「食堂かたつむり」です。どの本も小さな幸せを感じることができるようなホッとできる本です。(←村上春樹とは全く違ったタイプ)
村上春樹のような世界が好きならば「よしもとばなな」もいいと思います。代表的なものは「キッチン」だけど、世界で翻訳されていますから、すでに読んだことがあるかもしれませんね。「アルゼンチンババア」(タイトルも惹かれる)や「ひな菊の人生」(奈良美智という美術家の絵を合わせて楽しめる)もおススメ!

Bluebaiさんがこれからどんな本を読んでどんな風に感じるのか、私も楽しみです。