2009年1月30日星期五

感謝

  私のブログにコメントを書いた皆さんをありがとうございます。特にoni-chiさんに感謝したいです。書いたコメントをよく読みました、とても勉強になりました、前日本語でそんな気持ちを表せなかったことがoni-chiさんのコメントを読んでから分かりました。
  また、たくさんほんを進めしてもらいました、私は村上のスタイルを好きか嫌いかと言えないけれども、そのような深い考えとか、その世界か私たちの生活かの解説とか(人によって違いですけど)に趣味を持ちます。だけど、多分そんなこと日本語で難しいですが、本を選ぶのも難しいですね。
  今読んでいる「これから歩くのだ」はエッセー集も、生活の小さいことから「私」が感じたことです。今回は内容は難しくなくて、日本語の表現と言葉は私が知らないことが多いです。そして進みが前より遅いです。
  第一篇の「わたしの好きな歌」と第二篇の「人を喜ばせるプロフェッショナル」と第三篇の「記憶の食卓」を読んで、村上の小説より軽い話題でした。「私」の好きな歌、理想の男性、得意な料理、旅のあれこれの話しで、自分の喜怒哀楽の随筆です。また生活から自分が感じたことが、あまりまじめ過ぎな考えではなく、ある時ある場所で思ったことだけで、多分自分もすぐ忘れてしまいますから、そのままで書いて、後で読んだら「あー、私はそう思っていたが」という気持ちだと思います。時々面白いこともありますし、読む人にも笑わせられます。oni-chiさんが言ったとおり、生活が大変ですから、あまり重く考えないで、一つのことに立ち止まらないで、前へ進められるようにしたら、いいじゃないんですか?

2009年1月16日星期五

村上春樹の終わりに

  最後の短編は「三つのドイツ幻想」と言う短い小説だ。小説と言えるかどうか私は分からない、その三つ幻想はストーリーの筋もないし、全部僕の思ったことだ。はじめの「冬の博物館」を読んでみたけど、終わったらその小説が何を話したかと自分の聞いたら、要約できなかった。いつもセックスの話しが出てきたが、何を話したいか私にとても不明だ。そして他の二つを読むのがやめて、今角田光代の「これからは歩くのだ」を始めた。
  先生の質問について難しいけれども、答えて見たい。今村上春樹の小説を終わったところに、読んだことと前書いた感想を振り返って、ほとんどとても悲観的な観点だのを気がついた。いつも「不公平」とか「損なわれる」とか「死の予感」と書いたけれど、全部私の人生に対しての観点ではなく、やっぱり読んだことに影響を受けたわけだ。でも、その人生の「不公平さ」と「損なわれること」の存在に私は信じている。それは「悲観的な」とは言えないと思う、そんなことを分かっているから、もっと平気で人生の不同な方面が見える。いいことだと思う。

2009年1月2日星期五

めくらやなぎと眠る彼女

  中間発表のとき私はバカンスの間たくさん読む予定だと言ったから、一週間旅行していたときも頑張って読んでいた、帰ってから今感想を書き初めて、一日でまた一つ小説を終わったじゃないよ。
  今回読んだ『めくらやなぎと眠る彼女』は難しかった。でも前『蛍』を読んだので、今回はそんなに分かりにくいではなく、同じぐらいテーマだと終わったところに分かった。
  「僕」は仕事を辞めて、東京から家に帰っていた。親戚に頼まれて、耳がよく聞こえないいとこ病院へ彼を連れて行くという物語だ。病院でいとこを待つ間、「僕」はかつて高校時代に友だちとともにそのガールフレンドを見舞ったのことを思い出す。そこで「めくらやなぎ」のことを語られる、またその花粉をつけたまま蝿は人の耳に潜りこんで、その人を眠らせて、肉も食べる。怖い話しけれどまた童話みたい。今耳の病気になって人に誤解をされていとこのことと比べて、その話しの目的は怖い気持ちをさせるだけでわなく、きっと他の言いたいことがあるを私は気がついた。
  『蛍』と『ノルウェイの森』の話しを思い出して、そんなイメージは、私たちの生きているの一部として絶えられない不公平さだと思う。ある人はいつもおぞましいものに侵されて、損なわれても続けなければならないということだ。時々聞こえなくなるいとこの左耳は、そのようにして損なわれ続ける僕たちの生のメタファーだろう。小説の最後にはそんな話しがあった:
  「じっとこうしてバスを待っているあいだにも、彼らはいとこの薄桃色の肉の中にもぐりこみ、汁をすすり、脳の中に卵を産みつけているのだ。だれも彼らの存在には気づかない。彼らの体はあまりにも小さく、彼らの羽音はあまりにも低いのだ」。
  『蛍』にある「死」の予感みたいものだを私は思い出して、悲しい人生の認識だね。

2009年1月1日星期四

踊る小人

  前の『納屋を焼く』よりそんなにおかしくない話しだけど、童話とか寓話のように語られる。「僕」はダンスの上手な彼女を手に入れるために、皇帝のダンサーだった小人に一夜だけ自分の体を渡すの物語だ。始めうちに、小人は「僕」の夢に出てきて、「僕」は現実に小人のことを尋ねる話しはとても長い、私はきっと後何か起こる気がして、分からないけれど、そのまま我慢して最後まで読んでみた。今回は「不思議な」と思わなくて、童話みたい結局でちょっと失望した。
  でも、一つ面白いことは根底に潜むものだ、人間の本質的な弱さだろう。小人は「僕」の体をほしいが、「僕」は何とか自分の身体を守りたい、結局は革命軍から追われることになる。なぜなら、「僕」小人の作った幻覚に耐えできて、約束通り一言も口をきかずに彼女を手に入れたが、小人はいったんは負けを認めるとき、そう言った:
  「『しかしこれで終ったわけじゃない』と小人はつづけた。『あんたは何度も何度も勝つことができる。しかし負けるのはたった一度だ。あんたが一度負けたらすべては終る。そしてあんたはいつか必ず負ける。それでおしまいさ。いいかい、俺はそれをずっとずっと待っているんだ』」。
  人生にそんな残酷な時もよくあるが、それを『踊る小人』が指し示してみせるのがすごいと私は思った。